【テーマ】「馬場・猪木を支えた男たち」
日時 2003年7月5日(土)午後2時00
場所 ル・クラブ・ジャズ
・ビデオ上映
坂口征二
坂口征二 対 アントニオ猪木(1987.5.25)
吉村道明
吉村道明 対 キラー・コワルスキー(1963.3.23)
ディック・マードック
ディック・マードック、マスクト・スーパースター
対 ブルーザー・ブロディ、ジミー・スヌーカ(1985.12.6)
ジャンボ鶴田
ジャンボ鶴田 対 天龍源一郎(1989.6.5)
コメンテーター
岸本 哲(デザイナー、カフェ「さらさ」経営)、岡村正史
今回は「馬場・猪木時代」研究の第二弾として、馬場・猪木を脇で支えたレスラーにスポットを当てたいと思います。
ある社会学者はスポーツの良さは一般社会とちがって分限を思い知らせる点だと指摘しています。「平等神話」がはびこる一般社会とは異なり、「実力」がものをいうスポーツ界には「いさぎよさ」や「敗者の高貴」など一般社会ではなかなかお目にかかれない倫理観が成立し、現代においては宗教に代わって「鎮め」の装置として機能しているとさえ言われています。
ところで、一般スポーツ界とちがって、根幹となるべき「実力」の部分にあいまいさがつきまとうプロレス界はむしろ一般社会に近い組織性を持っているのでしょうか。「実は○○はトップの××より強かった」という類の話は草創期からファンによって語られ続けてきました。しかも、その種の話は得てして熱狂的に語られるものです。「プロレス界は純粋実力社会ではない」という言説がなぜかファンを惹きつけ、非ファンを遠ざけてきた部分があるのではないでしょうか。
それにしても、なぜ馬場・猪木はトップに立てたのでしょうか。なぜ「鶴田・坂口時代」はなかったのでしょうか。特に、鶴田に関しては彼自身の修士論文(筑波大学大学院)をもとに考察したいと思います。この2月に亡くなった吉村は終生脇役に徹しました。吉村および坂口のあり方は単なるプロレスラー論を越えて組織の中の人間を考えるヒントになるでしょう。そして、マードック。石を投げればチャンピオンに当たるといわれるプロレス界で無冠に近い彼が凡百の王者より記憶に残っているのはどういうわけなんでしょうか。
今回は「馬場・猪木時代」を側面から照らすことによってプロレスという組織とその中での役割について思いを巡らしたいと思います。ふるって、ご参加下さい。