“Wrestling−The Great American Passion Play”
GREGORY STONE(1972)
解説:岡村正史
ストーンのいわゆる「第二論文」(私が勝手に命名した)である。この論文は4つの部分から成り立っている。
第一章 レスリングの歴史的変遷
第二章 プロレスの組織論
第三章 レスラーという職業
第四章 ファンの社会心理学的性格
第一章 レスリングの歴史的変遷
プロレス以前のレスリング史に関する記述からこの論文は始まる。「ヘンリー8世はうまいレスラーだった」といった具合だ。しかし、この部分はプロレス史に直接関係ないので、飛ばそう。
ストーンはいつの時点からプロレス史の叙述を始めているのか。これは取りも直さずスポーツとしての「プロ・レスリング」がいつ終わったかという問題につながる。ストーンは「アメリカ合衆国におけるスポーツ及びドラマとしてのレスリング」という小さな章の中でフランク・ゴッチ(1913年引退)こそ最後のプロ・レスラーだったと断定している。誰の時代までが本物だったのかについては論者によって意見の相違がある。フランク・ゴッチ説、エド・ストラングラー・ルイス説、ルー・テーズ説などが代表的なものだが、ストーンはテーズ説に関しては「ある地方のスポーツ記者はテーズが最後の“本物”のレスラーだったと郷愁の念たっぷりに空想した」とかなり冷淡な書き方をしている。日本ではテーズは本物だったという信仰が存在している。『ルー・テーズ自伝』のオリジナル版と日本語版(流智美バージョン)を比較すればわかるが、前者が格闘芸人の赤裸々な告白録という趣が強いのに対して、後者は日本における鉄人ルー・テーズのイメージを壊さないように配慮された一種の「評伝」となっている。思うに、テーズは日本では力道山さえもが一目置いた別格のレスラーとして初来日時から扱われてきた。力道山自体がある種神格化されているわけだから、テーズ神話はかなり強固だと思う。
ところで、プロレスがスポーツでなくなったどうかはどこで判断するのか。ストーンは賭けの問題を挙げている。つまり、プロレスに賭けなくなったことが最良の判断材料だという。もちろん、いつ「プロレス賭博」がなくなったのか誰も断定することはできない。ゴッチの引退と同時に賭博がなくなったわけでもない。しかし、ゴッチ引退後からしばらくの間にプロレスは「スポーツ」としての信用を確実に失っていったのは事実である。
ゴッチは引退と同時に、弟子たちによる「後継世界チャンピオン選抜トーナメント」を企画し、自らレフェリーを務めた。その結果、チャーリー・カトラーが世界王座を獲得。このカトラーを1915年に“胴締め王”ジョー・ステッカーが破るが、この結果は大番狂わせでプロレスの信用を著しく傷つけたらしい。そして、信用が完全に失墜したのが1917年(アメリカが第一次世界大戦に参戦した年だ)のアル・キャドック対ステッカー戦である。
この試合は三本勝負で行われた。一本目はステッカーが得意のボディシザースで先制(30分)。二本目はキャドックがステッカーの痛めている足首にくらいついてひねること1時間。最後は逆エビ固めで1本を取り返した(1時間20分)。決勝ラウンドはステッカーが足首のダメージで立てずに棄権し、キャドックに王座が移った。キャドックの勝利も大変な番狂わせだったようで、ストーンはこの試合は「八百長(fix)」だったと断じている。ストーンが「八百長」という表現を使っているのはこの箇所だけである。ドラマ化してからのプロレスに対してはfakeという表現こそ使われているが、fixは使われていない。
なお、アル・キャドックに関してはヘンリー・ミラーの『セクサス』という小説の中に登場するので、興味のある方は参照されたい。
ゴッチ引退後、プロレスはスポーツであることをやめ、急速にドラマ化していく。プロレスがドラマになっていった要因としてストーンは次の4点を指摘している。
(1)レスリングという競技自体に問題点があった。拷問技は相手に簡単に決めることが出来てなかなかはずれない。これが長く続くと客は退屈するし、おまけに骨折の危険性が高い。観客が感情移入できるのは技そのものに対してではなく、個々のレスラーに対してである。レスラーのキャリアを延ばし、業界の生命を維持する方法が見つかる必要があった。
(2)この頃から急速に都市化が進行した。それまではレスラーは小さな町をサーキットするだけでよかった。観客もほとんど顔見知りであった。言ってみれば「おらが町のヒーロー」であり、観客のレスラーへの感情移入は容易であった。ところが、都市化の進行によってサーキットも広範囲に渡ってくると、従来のレスリングでは興行的に対応できなくなってきた。
(3)ゴッチ引退直前に反暴力の風潮が強まっていた。サブミッションを決め合い、相手の肉体に決定的なダメージを与えてしまうレスリングに世間の風当たりは強かった。本当に決めてしまうレスリングのやり方は限界に来ていた。
(4)レスラーは確実に金儲けをするためにプロモーターやマネージャーとともに「トラスト」を結成していった。初期のトラストとしては“締め殺し”エド・ストラングラー・ルイスがトーツ・モントやビリー・サンドゥと結成した“砂金トリオ”が有名であり、配下のレスラーを500人抱えていた。トラストの利点は“working matches”と言ってリアルでない試合を確実に仕組むことができる点にある。このトラストの力によってプロレスのドラマ化は確実に進展していった。
ワークの反対語はシュートである。ワークは「プロレスをする」ことを意味し、シュートは「真剣勝負をする。相手をつぶす」ことである。複数のトラストが競合する事態が起こると、敵対するトラストをつぶすためにレスラー(trust-busters)が送られてくることがある。また、トラスト内でトラブルが発生するケースがある。特に、レスラーが自分のランクに不満を抱いた時だ。このようなときにシュート試合が行われる。シュートをやらされるレスラーはpolicemanと呼ばれる。トーツ・モントはルイスのポリスマンだったようだ。
ゴッチ引退とともに始まったプロレスのドラマ化が一つの完成を見たのは1930年代にピークを迎えたジム・ロンドスにおいてであった。
第一に、彼はドル箱だった。興行収入記録を次々と塗り替える大入りを続出させた。
第二に、ロンドスはプロレスに“フリーク”の要素を導入した。ロンドスは176センチ、95キロと小柄であったが、対戦相手に倍近くの体重がある“人間山脈”マンマウンテン・ディーンを選び、プロレス史上初めて「怪物退治」的試合を成功させた。
第三に、彼は女性ファンの動員に成功した。
ストーンのプロレス史叙述はロンドスで終わっている。
解説(というより余談)
私にプロレス学の論文の存在を教えてくれたのはリー・トンプソン氏(大阪学院大学助教授)である。現代風俗研究会でお会いしたのが『知的プロレス論のすすめ』を出版する直前の1989年の2月だった。現風研年報の合評会の中で岡村対トンプソンの「特別対談」が行われるという触れ込みであった。蓋を開けてみると、井上章一氏対トンプソン氏の様相を呈したことが今でも思い出される。この「特別対談」に関しては拙編著『日本プロレス学宣言』に詳しく載っている。
岡村とトンプソン氏のクリーンな技の攻防といった趣でスタートしたこの対談ならぬ試合は「そんなおとなしい試合はしゃらくさい」とばかりに井上氏が乱入したことによりラフファイトに発展。多田道太郎、鶴見俊輔、加藤典洋、鵜飼正樹各氏も参加した大バトルロイヤルと化したのであった。
70年代の例えで恐縮だが、この日のトンプソン氏はボブ・バックランド、井上氏はタイガー・ジェット・シンとオーバーラップした。トンプソン氏は元アマレスラーであり、アマレスとプロレスが混同される現状に立腹したことがプロレス研究を始めたきっかけであったという。
ところで、前回のプロ文研でトンプソン氏と10年ぶりに再会した。ゆっくりと話す機会はなかったが、10年間ですっかり様変わりしたかに見えるプロレス界の新しい現状を探るかのように熱心にノートをとっているのが印象的だった。幸い?井上氏とはニアミスで10年ぶりの顔合わせは実現しなかったが、いつかプロレスについての論文を書いた人を一同に集めてシンポジウムを開催するのが私のささやかな夢である。
最初に書いたようにストーンの論文を紹介してくれたのはトンプソン氏である。トンプソン氏によればストーンのこの「第二論文」こそアメリカにおけるプロレスの社会学的研究の決定版ということだった。なるほど、ストーン論文に流れる空気はトンプソン氏に受け継がれているように思う。ひとこと感想を言わせてもらうと、プロレスを好きでもない人がプロレスのことを研究するアメリカという国は単純に凄いと思う。一般的社会現象としてプロレスに興味を持つということが日本ではまだ市民権を得ていないのではないだろうか。
なお、同論文の第二章以降については次回ということで。