2012年3月例会案内 2007/07/16
■日時 3月24日(土)午後2時~5時

■報告者 安田昌弘さん(京都精華大学)

■会場 徳正寺さん(Google Map:http://goo.gl/w3ZeR

■テーマ「文化のグローバリゼーション
~京都ブルースの事例から」

■趣旨

♪シカゴに来てぇ 二年が経った
 だけどいいこと ありゃしねえ
 メンフィスから 汽車に乗って やってきたけれど
 ほかの 奴らは 上手いこと やってるけど
 この俺 だけが 落ちぶれちゃった
 街の片隅で 小さくなって ひとり暮らしてる

 98年に解散した大阪のブルースバンド・憂歌団の「シカゴバウンド」(1975年)といううたです。このうたを聴くたびに、私はある種の不思議な感覚にとらわれます。それは、どうもこのうたが一人称で語られていることにあるようです。大阪出身の4人組が、大都市シカゴで落ちぶれてしまった「俺」の心情を日本語で歌い上げる。大抵の場合、この歌が好きな人は(少なくとも私は)、「俺」はメンフィスの田舎から夢を抱いて大都市シカゴに来て、数年後に夢破れて落ちぶれた黒人ブルースミュージシャンだと勝手に想像して、「ホンモノらしさ」を感じています。でも、実際には、このうたはかなりちぐはぐな要素で構成されています。歌詞の内容から考えても、「俺」がどんな肌の色で、どんな仕事を求めていて、なぜシカゴにいて、どうしてメンフィスに帰りたがっているのかはわかりません。そもそもどうして「俺」は日本語で歌っているのでしょうか。

 文化のグローバリゼーションというと、コンテンツ輸出とかクールジャパンとか、なにかそういう大層なお話が想起されるかもしれませんが、今回は、日本(語)のブルースが持っているこのような多義性、あるいは重層的なアイデンティティのあり方を通して、グローバルなるものとローカルなるものの結びつき方について考えてみたいと思います。ともすると私たちは、グローバルなるものを一方的に振り返ってくる(災厄に近い)なにものかとして捉え、ローカルなるものをそのような災厄に抗おうとする(ロマンティックな)なにものかとして二項対立的に捉えようがちではないでしょうか。しかし、そのような単純な構図だと、どうして1970年代初頭の京都で急にブルースがブームになったのか(ブルース自体はその100年以上前からあります)とか、そもそもどうしてそれが京都から始まったのかなど、答えられない疑問があります。また、京都や大阪から日本のブルースバンドが次々と誕生し、憂歌団のようにだんだん日本語で歌うようになった経緯や、そうした活動を通して逆に「本場」とされるアメリカのブルースミュージシャンにさえ影響を及ぼしてゆく経緯からも、一方通行あるいは相互拮抗という単純な構図では捉えられない、もっと複雑な相関関係が見て取れると思います。

 本発表では、このような問題意識を踏まえつつ、京都ブルースを事例に、グローバルとローカルの二項対立という単純な図式の乗り越えを模索してみたいと思います。

 

 

2012年1月例会案内 2007/07/16
日時:1月21日(土) 午後2時~5時
報告者:川崎寧生さん(立命館大学先端総合学術研究科)
場所:徳正寺さん(Google Map:http://p.tl/zUMk

テーマ:「ゲームセンターの系譜学・試論
     ――戦後日本の若者文化論を目指して」



 昨年、11月27日をもって、京都の「スポーツランド北白川」というゲームセンターが閉店しました。以前から京都に住まれている方には懐かしい名前かとも思われますが、1970年に開店し、現在まで生き残ってきた、総合施設型のゲームセンターであります。ゲームセンター産業が日本社会で注目を浴び始めた時期から現在まで生き残ってきた老舗が閉店したことは非常に残念です。

 さて、以上のような、日本におけるゲームセンター産業が登場しはじめたのは1960年代からになります。それから半世紀たった現在、ゲームセンターはほかの娯楽に押されがちですが、存在しても違和感がない、日本社会に浸透した娯楽産業となったのは疑いようのない事実といえましょう。この歴史の中で、ゲームセンターには、駄菓子屋や、百貨店内のゲームコーナーのように、全く違う、様々な客層を想定した店舗の形態も多く登場していました。これらの様態は、なくなったものもあれば、現在も残っているものも多々あります。このように、場所や需要に応じて様々な店舗形態が存在することは、ゲームセンターの大きな特徴といえるでしょう。

 そこで今回は、ゲームセンターを主題とした研究に関する現状の成果と課題を確認した後に、私自身の研究の現状報告として、日本ゲームセンターの様々な店舗形態について分類していくことにします。特に今回は、ゲームセンター産業の発展史と関連させながらみていくつもりです。最後に、今後の研究の試論として、分類した店舗の風俗、とくに利用方法や、客の年齢層などについて、もう少し突っ込んだ形で比較してみたいと思っております。

 ゲームセンターという新たな産業が、戦後の日本社会にどのような形で溶け込み、成長してきたのか。そして、主たる客層である若者文化との関連性について、考えていくきっかけになればと思っております。(川崎寧生)

 

 

2011年度総会のご案内 2007/07/16
社団法人現代風俗研究会の総会を以下の要領で開催します。年末のお忙しい時期だと存じますが、ぜひご出席願います。


 日時  12月3日(土)
 場所  京都精華大学 黎明館 L-103

※会場へのアクセス
 http://www.kyoto-seika.ac.jp/access/index.html


■主な議題(予定)

 (1)平成23年度事業報告及び収支決算についての事項
 (2)平成24年度事業計画及び収支予算についての事項
 (3)一般社団法人移行申請に伴う定款の一部変更等について
 (4)「橋本峰雄賞」発表・贈呈式
 (5)その他



■プログラム

 13:30~  受付開始
 14:00~15:00  総会・選挙
 15:00~17:00  年間テーマ基調報告(約1時間)
 18:00~ 懇親会(三条京阪まで移動します)



■基調報告

・報告者 常見耕平

・テーマ
 「ヒト、『ブースター』になる
  -スポーツ応援の風俗-」

 

 

2011年10月例会のご案内 2007/07/16
日時:10月1日(土)14時~17時
会場:徳正寺さん
(Google Map:http://p.tl/zUMk
報告者:斎藤光さん(京都精華大学人文学部)


テーマ:京都におけるカフェーの始まり

 1911年夏、東京の銀座で、「カフェー」というジャンルが誕生した。個別の店舗では、1911年の4月頃、プランタンが開店。8月10日、ライオンが開店。12月12日、パウリスタが開店。銀座には、こうして、永井荷風がいった「適当な休み場所」、あるいは「自由な淋しい心持」でいることが出来る場とジャンルが、誕生した。(永井荷風「銀座」1911)

 こうした場であるカフェーというジャンルは、すぐに日本の都市圏を席巻した、らしい。そう言われているし、そう考えられている。少なくとも大阪では、ほぼ同時期にカフェーが生まれたことは分かっている、ただ、どう席巻したかについて各大都市ごとの状況は、詳しくわかっていない。名古屋はどうなのか?福岡はどうなのか?

 もちろん、当時京都も、都市圏であったから、カフェージャンル誕生の影響を受けた。ただ、他の都市圏と同様に、これまで、そのありさまが、詳しく調べられたことはない。

 今回の報告では、1911年あたりから数年間、京都という街で、カフェー(そしてバー)がどのように広がっていったのか、これまであまり使われていない資料をもとに、考える。京都におけるカフェーの出現と増殖の様子を見ることにしたい。1911年末には、2軒、1914年初めには、19軒、カフェーあるいはカフェー的な場が、京都にはあったことなどを発表する予定である。

 

 

2011年度7月例会のご案内 2007/07/16
日時:7月23日(土)14時~17時
会場:徳正寺さん
    http://www.genpoo.org/images/map.JPG
報告者:大淵裕美さん


テーマ:妊娠と食事をめぐる悩み・楽しみ
    ―ある初産婦の妊娠日記とインタビューを事例に


晩婚化、少子化が進み、子どもが少なくなったと言われています。毎年発表される合計特殊出生率の数値を聞き、その上昇下降に一喜一憂する人々もいます。しかしながら、子どもの数は減ったのに、妊娠中の女性の食生活については、とやかく言われる機会が増えているのではないか?という印象を持ちます。

2008年、厚生労働省は『妊産婦の食生活指針』を策定し、妊娠・授乳中の理想の食生活を提示しました。毎月の妊娠検診では、女性たちは、医師や助産師から体重が増えすぎだと怒られたり、ファーストフードを食べてはいけないと言われたり、鉄分の多いレバーを薦められたりします。

もちろん、古くからおばあちゃんの知恵袋的な妊娠・授乳期の食物規制や推奨がありました。現代では、食をめぐる環境が大きく変化するだけでなく、女性自身が自分の身体の美しさを保ちたいと思う気持ちも強く働いていると思います。


妊娠・授乳期の女性たちは、世相によって変化する食物規制や推奨にもまれながら、どのような食生活を送っているのでしょうか?三度の食事や間食では、何をどのように、どのような気持ちで摂取しているのでしょうか。


2007年に娘を出産してから、妊娠・授乳期の食生活について深く考える機会をもってきました。なかでも、今回の報告では、2010年4月末に第一子を出産したAさん(27歳)をとりあげます。彼女には、2009年11月中旬から2010年5月初旬までの約半年間、日記の記録をお願いし、6回インタビューを行いました。

Aさんにとって最も身近な先輩ママであるワタシトの関わりを通して、最近の妊娠ライフについてお話したいと思います。参加者の皆様からも、妊娠中の食事にまつわる思い出話やエピソードをお教えいただけたらと思います。

 


■過去ログ

 

 

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