『辻パパの戦中戦後少年青年壮年老年日記』 目次
 第1~10回
  ・第1回 「“戦争ごっこ”の時代」
  ・第2回 「“天皇ごっこ”の時代」
  ・第3回 「“皇国ガキ大将”の時代」
  ・第4回 「“天皇は神か人間か?”の時代」
  ・第5回 「“天皇崇拝ドロップアウト”の時代」
  ・第6回 「“軍国少年vs.好色少年”の時代」
  ・第7回 「“ガキ大将対決”の時代」
  ・第8回 「“皇族に腹を立てた”時代」
  ・第9回 「“暴力でささえた軍国主義”の時代」
  ・第10回 「“戦争はうんざり”の時代」

 第11~20回
  ・第11回 「“目からうろこが落ちた日”のこと」
  ・第12回 「“負~けた、負けた”の時代」
  ・第13回 「“敗戦か終戦か?”の時代」
  ・第14回 「“戦後の空は青空”の時代」
  ・第15回 「“やみくもに生きた”時代」
  ・第16回 「“民主的混乱”の時代」
  ・第17回 「“可能性?”の時代」
  ・第18回 「“無恋に悩む”時代」
  ・第19回 「“手さぐりで青春を”の時代」
  ・第20回 「“我が道を往く(Going My Way)”の時代」

 第21回~30回
  ・第21回 「“若気と、ごり押し”の時代」
  ・第22回 「“進学ゲリラ”の時代」
  ・第23回 「“破れかぶれで順風満帆”の時代」
  ・第24回 「“自由を求めてジグザグ”の時代」
  ・第25回 「“逆コースの憂さはパイプの煙で”の時代」
  ・第26回 「“日本は独立できた??”の時代」
  ・第27回 「“おれも往生際の悪い日本人”の時代」
  ・第28回 「“なにごとも、負けたおかげ”の時代」
  ・第29回 「“待てば海路の日和(ひより)あり”の時代 」
  ・第30回 「“あやかり信長上洛”の時代」

 第31回~40回
  ・第31回 「“上洛早々、いきなりくじかれた出鼻”の時代」
  ・第32回 「“掴んで放すな、チャンスの前髪!”の時代」
  ・第33回 「“撮影所に迷い込んだ感じ”の時代」
  ・第34回 「“M的+W的”の時代」
  ・第35回 「“新米助監督が歩くのは、ジグザグ道”の時代」
  ・第36回 「“パイプ煙草復活へ”の時代」
  ・第37回 「“美空ひばりに出あったり、
  ・第37回  火事場面の撮影初体験”の時代 」
  ・第38回 「“映画とヤクザ、持ちつ持たれつ”の時代」
  ・第39回 「“大映に、ハリウッド出現”の時代」
  ・第40回 「“こんな映画をつくっていて良いのか”の時代」

 第41回~50回
  ・第41回 「“監督さんは、お幸せ”の時代」
  ・第42回 「“仕事始めは、ラッパの響きで”の時代」
  ・第43回 「“監督昇進いつのことやら、年功序列”の時代」
  ・第44回 「“からだが映画屋化していく”時代」
  ・第45回 「“撮影所は、お化けの住処?”の時代」
  ・第46回 「“追従は自立にまさる?”の時代」
  ・第47回 「“量産競争でキリキリ舞いと
  ・第47回  釈迦のおかげ”の時代」
  ・第48回 「“ナメクジからデンデンムシへ”の時代」
  ・第49回 「“結婚は結婚、仕事は仕事”の時代」
  ・第50回 「“映画作りは金儲け?芸術表現?”の時代」

 第51回~60回
  ・第51回 「“人の幸せを願って”の時代」
  ・第52回 「“結婚とは、
  ・第52回  お互いに飛んで火にいる夏の虫”の時代」
  ・第53回 「“融合するか、水と油?”の時代」
  ・第54回 「“映画づくり+子づくり”の時代」
  ・第55回 「“三島由紀夫に操られてたまるか”の時代」
  ・第56回 「“宙に浮いた気分”の時代」
  ・第57回 「“大映入社10年目に迎えた崖っぷち”の時代」
  ・第58回 「“生まれて以来の同志倒れる”の時代」
  ・第59回 「“旧日本の亡霊をモグラ叩きしながら”の時代」
  ・第60回 「“眠狂四郎と無頼を考える”時代」

 第61回~70回
  ・第61回 「“むなしい監督昇進”の時代」
  ・第62回 「“独立独歩再確認”の時代」
  ・第63回 「“仕事より、気を奪うのは社会”の時代」
  ・第64回 「“おのれの愚かさを自覚する?”の時代」
  ・第65回 「“万博は、うずまく矛盾の走馬燈”の時代」
  ・第66回 「“三隅監督とは、いつも二律背反”の時代」
  ・第67回 「“勝新初監督の『顔役』は、
  ・第67回   異色のやくざ・ボンノと共に”の時代」
  ・第68回 「“異色を発揮する勝新太郎監督”の時代」
  ・第69回 「“会社倒産は人間解放?”の時代 」
  ・第70回 「“♪どこまでつづくぬかるみぞ!!” の時代」

 第71回~80回
  ・第71回 「“あやかり信長、困惑”の時代」
  ・第72回 「“七転び八起き”の時代」
  ・第73回 「“偶然は、活かさなくちゃ”の時代」
  ・第74回 「“風俗学はいずこ?”の時代」
  ・第75回 「“独断と偏見で、風俗学だ!”の時代」
  ・第76回 「“わが原点とは?”の時代」
  ・第77回 「“新しい偶然”の時代」

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第1回「“戦争ごっこ”の時代」
 私が生まれたのは1931年8月。翌9月には満州事変開始。私の人生は、日本がアジア侵略に乗り出す15年戦争と、ほぼ同時にスタートした。

 当然のように「男は、大きくなったら軍人になって、戦争に行かなくてはならない」と、大人たちから時代の風潮を刷り込まれて育った。ところが、新聞をとる家も、ラジオのある家も、本になじむ家も少ない田舎で育つ学齢期前の幼児には、情報不足・知識不足で、戦争に対するイメージが湧かない。しかし兵隊のまねごとなら、表の道を、よく軍隊が行進していくから、見本には事欠かない。近所の幼な仲間と、「ぼくは軍人大好きよ。今に大きくなったなら、勲章つけて剣さげて、お馬にのって、はいどうどう」とか、「鉄砲かついだ兵隊さん、足並みそろえて元気よく…」などと、声張り上げて軍国童謡を歌い、鉄砲代わりに竹や木の棒をかついで近所中を歩き回る“兵隊ごっこ”に明け暮れた。ほかにも、水遊び、せみ取り、めんこ遊び、ビー玉遊び、独楽回し、凧揚げなどでもよく遊んだが、ハイライトは“兵隊ごっこ”だった。

 私の生まれ故郷は、織田信長の清洲城があった清洲町北部の町外れ。当時陸軍の第3師団が置かれていた名古屋市に近いので、三日にあげず、軍隊が表の街道(江戸時代から名古屋と大垣を結ぶ美濃路)を行軍で行き来した。数人でかついだ重機関銃を前後にした歩兵隊。野砲を馬に引かせた砲兵隊。輸送車を馬に引かせた輜重隊。軍隊が運んでくる汗の臭いや馬の臭いの混ざった独特の臭いに刺激されるのか、行軍を見た後の“兵隊ごっこ”は、ことさら熱がこもった。

 1937年、中国に対しての“支那事変”開始。翌年、小学校入学祝いに買ってもらった本は、母にねだって、講談社の絵本シリーズから『忠勇美談』。それは、日清戦争、日露戦争、満州事変、上海事変など、日本が犯してきた戦争の画集だった。私だけでなく、遊び仲間にとっても本格的な本だった。幼児向きの絵本と違って、リアルなタッチで描かれた戦争画の迫力に、皆が惹き込まれた。農家の子は、ほとんが勉強に無関心。字を読むのが苦手。すらすらと読める私の説明でページをめくり、興奮の眼を注いだ。そして敵の弾に当たったとき、軍人は「天皇陛下ばんざい」と叫んで死んでいくと知らされ、死に際の苦しさに耐えて叫ぶのが、最も格好いい名誉の戦死だと話し合った。

 戦争のイメージが子供なりに掴めると、私は戦争指導。それまでの単調な“兵隊ごっこ”は、“戦争ごっこ”へと発展した。近くの路地や空き地から、周りに大きく広がる田畑が戦場になった。私たちは、われ先に「天皇陛下ばんざい」と叫んで戦死した。

 1学年の成績がよかったからと、褒美に買ってもらったのも、同じく講談社の絵本『支那事変画報』。南京攻略戦、徐州作戦など戦争の知識が深まるにつれ、遊び方は高度化した。武器は、木を削ったり、竹を鉄砲の筒や剣の鞘に利用したりして、鉄砲や剣の形をしたものに進化した。組織も、隊長や部下、歩哨兵や斥候兵、歩兵や砲兵などと充実された。しかし、敵兵のなり手がないことには困らされた。当時「ちゃんころ」と蔑まれていた支那人になることは、誰でも嫌だった。おとなしい子をむりやり支那兵に仕立てて攻撃した。多くの戦死者を出した。戦死者が多いほど戦争の悲壮感が増すのである。敵を捕虜にすると戦死者も生き返り、鎮守の森に凱旋してきて、捕虜を銃殺したり、首を切ったりして処刑した。

 当時、このような遊びは残虐でも何でもなく、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」て皇室を助けよと諭す、教育勅語の精神に沿った当たり前の遊びだった。

 “戦争ごっこ”は激しさを増した。時には田畑を踏み荒らして大人たちを敵に回し、青くなって必死に逃げたが、ある時期までは、“戦争ごっこ”が止むことはなかった。 

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第2回「“天皇ごっこ”の時代」
 昭和15年(1940)、意気揚々として小学3年生になった。

 時はあたかも、皇紀2600年。「金鵄輝く日本の/栄えある光身に受けて/今こそ祝えこの朝/紀元は2600年/ああ1億の胸は鳴る…」の歌声がみなぎり、3年前からつづけていた支那事変(日中戦争)の中ダレを吹き飛ばそうと、日本中で、神武天皇の建国を祝う記念行事や提灯行列が行われ、軍国の機運が高まった。

 私も、前年には、親孝行(?)ということで、組に1人しか与えない“二宮金次郎賞”を授賞。また、最強のいじめっ子を壁に叩きつけて学年一の腕力をみせ、ガキ大将に1歩接近。そして学年末には、最高の学年成績に与える“品学1等賞”をもらい、せまい田舎町のこととはいえ、まさに「栄えある光身に受けて…」3学年に進級したのである。男子のあこがれ、陸軍大将・海軍大将への夢は大きくふくらんだ。

 そんな私を、早稲田大学の高等師範部国語漢文科で学んでいた兄貴がわりの叔父(母の弟)は、「おまえは母1人子1人だから、軍人を職業にしてはいけない」と危ぶんだが、勉強のためならと、紀元2600年記念に、念願の『児童年鑑』を買ってくれた。児童年鑑は、小学校高学年が対象で、軍事知識や情報が豊富に盛り込んである。辞書を片手に、陸海軍の配備状況、列国の軍備比較、軍艦の種類や装備などの知識を、むさぼるように詰め込んだ。

 そのうちに、天皇が軍人の最高位である大元帥であることや、宮中に置かれた大本営で、陸・海両軍に戦争の指図をしていることがわかってくると、陸軍大将、海軍大将程度ではつまらない。どうせなるなら、大元帥陛下だ。戦争ごっこは“天皇ごっこ”へとエスカレートした。

 「なにに使うの?」といぶかる母にねだって、赤ん坊のときに使った白い毛糸のケープを探し出してもらった。思っていたとおり、そのケープを羽織ると、天皇の気分になれた。いつも白馬にまたがっている天皇の乗馬姿を、新聞や雑誌などに出る写真で見慣れていて、もし天皇が戦場に出て羽織るとすれば、白色のマントだろうと連想していたからだ。

 わが野戦の大本営は、東裏の田畑が一望できる鎮守・浅間神社の拝殿だった。当時天皇の声や動作は、聞いたことも見たこともない。天皇の言葉は教育勅語のようなものだと信じているから、それにならって、天皇の第1人称である“朕”を連発し、「朕は突撃を命ずる」「朕は敵撃滅をこいねがう」などと、副官役を通じて全軍を指揮した。また天皇の厳かな雰囲気を出すためには、目の焦点を、近くの相手に合わせず、いつも遠くに焦点を置けばいいだろうと考えて演技した。

 聞くところによると、現在皇室が出歩く場合、個人に注意を向けると不公平になるから、誰にも焦点を向けないとのことで、私の幼稚な天皇演技は、ある意味で正しかったのだ。

 そして、南京大虐殺の話を聞いたのは、その夏のことだった。

 場所は、木陰に恵まれた浅間神社の境内。話の主は、寝ころぶための筵を持って涼みにくる南京攻略戦での負傷兵。彼は、膝に抱いた自分の幼子をあやしながら、「戦地へ行ったら、何でもできるぞ」と、強奪、虐殺、強姦の残酷な体験談を、得々と披露した。徴兵前の青年だけでなく、少年の私たちも性的興奮を抑えながら、愉快な冒険談を聞くようにして耳をそばだてた。皆、中国人を蔑視して、人間とは見ていなかったのだ。

 天皇に忠義を尽くすために戦う日本の軍人が、あんなことを本当にするだろうか。帰って母に話すと、「あんな人のいうことを真に受けてはいかん」と一喝された。その人は、新兵のときから、殴った上官を外出時に家まで追いかけていって報復するなど、位の上がらない万年2等兵として、痛快な人とも、無茶な人とも、とやかく言われている人だったからだ。しかし母の一喝にもかかわらず、戦争に対する猟奇的興味は、心の底に染みついてしまった。

 4年生になると、小学校は国民学校に名を変えた。国は、天皇崇拝を高め、戦争賛美、軍国主義を、小学生のうちから徹底させようというわけである。そうなると、話は違ってくる。いつの頃からか、私は強制されるのが大嫌いになっていた。

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第3回「“皇国ガキ大将”の時代」
 1941年(昭和16年)4月。明治以来70年間親しまれてきた小学校は、義務教育を2年延長して、初等科6年、高等科2年の皇国少年少女を育成する国民学校に変わった。それまでの内からほとばしる“ヤンチャごころ”では対応しきれない、外から鋳型にはめ込もうとする国家主義・軍事色濃厚な、ものものしい雰囲気で新学期が始まった。

 校門を入ったところには、通路を塞ぐように板づくりの模擬城壁が置かれた。高さ・幅ともに凡そ2メートル。男子はそれを乗り越えて入校しろというわけだ。乗り越えられないものは、体力の錬成を要求された。学力腕力怖いものなしで初等科4年を迎えた私にとっては、何の苦もないことだったが、高学年でも小柄な人、体力の弱い人には難関だった。下級生の前で、必死に乗り越える無様な姿をさらけだして、笑いの的になった。恐らく、当人たちは苦痛を味わったに違いない。体操教科も、5年生からは、男子に剣道、女子に薙刀を教える武道が加わって、体鍛科となった。

 また教室では、毎朝の掃除の後、担任もろとも全員が床に正座して、幕末の水戸藩尊攘派の中心・藤田東湖の「天地正大ノ気、粋然トシテ神州ニ鍾(あつま)ル。…」と始まる詩文『正気歌』を、声張り上げて唱和。国の強制か、教師の迎合的選択か、調子のよい東湖の詩文は、意味わからずとも、天皇さえ賛美しておれば、どんな戦争にでも勝てそうな気分を奮起させたから不思議だ。東湖のマインドコントロールにかかって、唱和後は戦う兵隊の苦労を偲んで、しばし黙想。

 いまの文部科学省や自由主義史観の連中が喜びそうな情景だが、ちょっと待て。女子供が殺せないようでは、地上戦は出来ないぞ。私には、前年鎮守の森で聞いた皇軍の南京虐殺暴行事件に思いを馳せることも、忠君愛国を実行するためのイメージトレーニングとさえ思えたのだ。(元沖縄駐屯のアメリカ海兵隊員だったC・ダグラス・スミスの著書『憲法と戦争』によると、アメリカ海兵隊員も、平気で女子供を殺せるようになる訓練を受けて沖縄へ来ているとのことだ)こうして毎朝の精神錬成、凡そ15分。私は、まさに猟奇的な皇国少年・軍国少年へとなりかけた。

 高等科の人たちとも対等に相撲をとるようになった私は、当然、その人たちがいないときのガキ大将。相変わらず、戦争ごっこ天皇ごっこは続いたが、夏休みに入る頃、異変が起きた。学校からの団体鑑賞で、ポーランド進撃、パリ攻略戦を記録した『勝利の歴史』と題するナチスドイツの映画を観たからだ。

 スピーディな電撃作戦を展開する機械化部隊。大砲を引くのは、すべてキャタピラで動く牽引車。兵隊の進行は、サイドカー付きのオートバイ。ほとんどが、歩く兵隊と、大砲を引く馬で構成されている我が帝国陸軍とは、雲泥の差。前年に日独伊三国同盟が成立したが、ドイツと手を結んでおれば、世界制覇も間近だと錯覚するほどだった。事実、そんな大人たちの錯覚した声を、周りでふんだんに聞いた。(バブルがはじける前、GNP世界第2位となって、いまや欧米に学ぶものは何もないとうそぶいた人たちも、当時の日本人と変わらないのでは?)

 これからは機械化部隊だ。私は、地面を這ったり、走ったりするような戦争ごっこへの興味を急速に失った。
 その夏は、ガキ大将として、泳ぎ場を占拠するため隣村のガキたちに体を張ったり、また、水の遊び仲間に与えるおやつを確保するため、大人に追われたりしながら畑泥棒に精を出した。ガキ仲間にとっては、不思議と、家でとれた西瓜や瓜より、盗んだものの方がうまいのである。

 そして12月8日。学校の昼食時間に、ホノルル急襲の大成功と、大東亜戦争の開始を知った。

 周りの大人たちの中には「お前たちが兵隊になる頃には、ニューヨークで自由にアメリカの女が抱けるぞ」と、真顔で、私たちを羨ましがる人たちが出てきた。

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第4回「“天皇は神か人間か?”の時代」
 昭和16年(1941年)12月8日、米英両国に戦争をしかけるやいなや、あっという間に、米国太平洋艦隊、英国東洋艦隊に大打撃を与え、一挙に、戦線を西南太平洋全域にひろげて、武勲はうなぎ登り。早くも25日には香港陥落。マニラは陥落寸前。天皇は陸海軍の活躍をほめたたえて、勅語を連発。

 そして昭和17年、聖戦と称して、天皇の領土拡大に励んでいた私たち日本人は、その時代で最も輝かしい正月を迎えることになった。『戦史に燦たり・米太平洋艦隊の撃滅』の大見出しとともに、ハワイ真珠湾奇襲の記録写真が、元旦の新聞第1面を大きくかざった。

 遊びから帰ってくると、その写真は、いつの間にか切り抜かれ、額に入れて欄間にかかげられていた。4月の陸軍入隊をひかえ、「赤紙(召集令状)1枚で、命を捨てに行くのは馬鹿らしい」とぼやきながら、前年の大学卒業以来教師をしていた叔父(母の弟)の仕業だった。ついに叔父も、日本軍の連戦連勝に気をよくして、兵隊になる気持ちになったのだろうか? 

 授業が始まると、教室の壁面に大きな太平洋地域図がはられ、私たちは、広がる占領地の上に日の丸の小旗をはりつけ、アメリカ本土上陸作戦を夢みて、有頂天になった。工作の授業でつくった凧には、赤鬼青鬼に見立てたルーズベルト米国大統領、チャーチル英国首相の似顔絵を描き、その頭上へ『鬼畜米英撃滅』と、筆太に書き込んだ。

 字(あざ)ごとに結成された少年団員の私たち男女小学生は、毎夕欠かさず隊列を組み、進軍ラッパを吹き、軍歌を歌い、字の中を練りながら鎮守へ行進。出征兵士の武運長久を祈った。

 叔父の入隊日は4月1日。その前夜のことだった。隣で材木屋を営む遠縁のおじさんが、別れの挨拶に訪れ、「馬鹿な戦争をはじめたもんだなも」と口を滑らせた。聞きとがめて、叔父は「何が馬鹿な戦争だぇも」と、いきりたった。

 「よう考えてみやぁせ。アメリカは、ぎょうさんに持っている大きな自動車工場を、軍需工場に変えてみやぇ。日本の何倍もの武器がいっぺんに作れるがなも。勝てるわけがないがぇ」

 叔父は返答に詰まったのか、「非国民!」と、ののしった。おじさんは気まずそうに立ち去った。お妾さんを置いたり、ぐうたらな町会議員をしたりして、あまり尊敬されていない人の言うことだからからと、祖母や母は叔父の高ぶりをなだめた。しかし、私にとって“馬鹿な戦争”という言葉は印象的だった。戦争中、二度と耳にしない言葉だった。

 まさに当時の日本は、『天皇を中心とした神の国』。神の子孫である天皇の始めた戦争が“馬鹿な戦争”とは。神の国の歴史を知らなければと、痛切に感じた。新学期からは、新たに国史の授業が始まる。入隊を待ってましたとばかりに、叔父の部屋へ入り込み、大学の高等師範部で使ったと思われる『古事記全釈』に取り組んだ。たちまち神の尊いイメージは吹っ飛んだ。

 神様たちは、男神女神の間でセックスしたり、素っ裸になって抱き合ったり、女神のストリップショーを男神が楽しんだりしている。また、字の鎮守・浅間神社に祀ってある美女神のコノハナサクヤビメが、天孫ニニギノミコトとセックスして天皇家の先祖に当たる子を生んだこともわかった。小学5年の私には、大人たちが尊いと崇めている神が、淫らな人間に思えてショックだった。こんな神様たちに勝利を頼んでも、お門違いだ。勝たせてくれるわけはない!

 古事記で知ったことは、国民こぞって神を信じているような雰囲気に包まれていると、祖母や母にも言い出すのが怖く、心の底に重い秘密として抱え込むことになってしまった。

 4月18日の放課後、運動場で遊んでいると大きな爆発音。何だ何だと騒いでいると、教師が飛び出してきて叫んだ。「名古屋が空襲された。早く家に帰れ!」 米軍機による初の本土空襲だった。清洲の町から7㎞ほど離れた名古屋の上空高く、大量の煙が覆いかぶさるように立ち上っている。大東亜戦争の将来が思いやられた。……天皇は神か、人間か? 人間か神か?……煙を背にし、走りに走った。

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第5回「“天皇崇拝ドロップアウト”の時代」
 国民学校初等科5年生になって間がない1942年4月18日。米軍の初空襲をうけた名古屋の空をおおう黒煙に、背後から追われる思いで学校から逃げ帰ってくると、母が祖母(母方)の身を心配していた。祖母は、4月1日に陸軍名古屋師団の輜重兵(シチョウヘイ=軍需品の補給と輸送を担当する兵種)部隊へ入隊した叔父(母の弟)の初面会に出かけていたのだった。

 「どえらぇ音と地響きがしてよう、びっくりこいたわ。面会どころでなくなったもんだで、仕方なぇから外へ出てみたら、いかんがぇ、ものすごぇ煙や炎が吹き上げとってよう、ほんとにおそがぇ(怖い)目にあってきたわな」

 爆弾が、軍の糧秣(リョウマツ=兵員の食糧と軍馬のまぐさ)庫に命中したらしいとのこと。祖母は命からがら名古屋から帰ってくると、毎朝夕欠かさないお参りに、裏の鎮守・浅間神社へ飛び出していった。それ以来、祖母の神信心はいっそう高まった。

 翌日の新聞には、隙をつかれたことをひた隠しにした感じで、『我が猛撃に敵機逃亡。軍防空部隊の士気旺盛』『被害は軽微』などと言い訳がましく報道されたが、「まだ戦争は始まったばかりなのに、もう本土へ爆撃にくるとは」と、敵の勇敢さに陰ながら舌を巻いた。

 ……軍は、無敵を誇っているくせにだらしない。毎日祈ってやっているのに、神さまは何をしとるんだ。天皇陛下は神さまでも、神通力はないのか?

 5年生になって習い始めたばかりの初等科国史の教科書と、叔父の本棚にある『古事記全釈』を読み比べて、毎日のように、天皇は神か人間かの問題に取り組んだ。

 古事記に書かれてある神代の、人間くさいエロチシズムあふれる大らかさに比べて、教科書に書かれている神代の雰囲気の、なんと厳粛で神々しいこと。この違い。何がどうなっているのだ? そして、気づいた。地面に穴を掘ったとか、木を切ったとかで病気になったり、怪我をするなど、些細なことでいろんな神や仏が、よく罰を当てたり、祟ったりすることを。

 ……天皇も神であれば、きっと罰を当てるはずだ!

 当時は、戦争が長引いて、物資は軍需優先に流れ、日常用品欠乏の時代。新聞紙も、包み紙から便所の紙にいたるまで、多様に使われた。そのため母や祖母は、不敬があってはならないと、新聞に掲載された皇室・皇族の写真は、読みおわるとすべて切り抜き、箱に入れて大切に仕舞っていた。その中から天皇の写真を盗み出して小便をかけた。その時の緊張感は、今も体が記憶している。写真はたくさんあったので、何日も何日も実験した。

 ……チンボは、ちょっとも腫れたりせんし、痛えにもかええにも、なれせんがや!

 6年生になって間がない天長節(当時の天皇誕生日・4月29日)の日のことだった。

 私の学校には全校生徒が入れる講堂がなく、儀式は、下級生(1年生から4年生)と上級生(5年生以上)に分けて行っていた。2階にある私たちの教室からは、別棟の式場が見下ろせる。だから、先に行う下級生の儀式で、校長が読み上げる教育勅語を上から見たらどうなるかを確かめるには、絶好のチャンスと考えた。天長節や紀元節(当時の建国記念日・2月11日)など国の祝日に行う儀式では、必ず校長が巻紙を開いて、それに書いてある教育勅語(チョクゴ=天皇の言葉)を壇上で読み上げた。当時は、勅語の文面や読んでいる人を天皇と同一視し、神なる天皇を見れば目がつぶれると諭され、勅語はうつむいて聞くことになっていた。

 「絶対に開けるな」と担任が言い置いていった窓の錠をはずし、細めに開けて見下ろすと、校長が、まさに巻紙を拡げて勅語を読み始めるところだった。私は凝視した。目はつぶれせん!

 私に気づいた級友たちが、われもわれもと窓を開け放し、大騒ぎになった。あわてて戻ってきた担任に、級友たちは「級長がやってたから」と、私は「気分が悪く、息苦しくなったので」と言い訳したが、結局不敬な行為を先導したと罰として、級長を1週間ほど止めさせられた。 

 天皇は、神ではない!
 私は天皇崇拝から脱落しはじめた。

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第6回「“軍国少年vs.好色少年”の時代」
 1942年4月、国民学校初等科5年生になり、たまたま家にあった叔父所蔵の古事記注釈本を開き、神代のエロチックな歴史を知るにつれて天皇崇拝・忠君愛国の念が薄れていった。と同時に、それまでチャンコロ、チャンチャン坊主などと軽蔑してきた支那人(現・中国人)が、同等の人間に思えてきたのが何とも不思議だった。私はひそかに軍国主義の風当たりをそらし、軍国少年と好色少年の間をゆれながら、中国に対する戦争が罪悪に思え、平和について考えはじめた。

 名古屋第3師団の輜重兵連隊に入隊したばかりの叔父の面会には、機会あるごとに祖母や母についていき、忠君愛国の旺盛な日本の軍隊とはどんなところかと自分なりに探った。    

 市電の“名古屋城前”停留所から師団司令部に通ずる大路の両側には、歩兵、輜重兵、砲兵などの各連隊が配置されていた。ひっきりなしに行き交う兵隊たちの間をすり抜けるようにして大路を行くと、「歩調取れー、かっしゃ(頭)みぎー」や「けれえ(敬礼)ー」などの号令が、あちこちから耳をつんざく。隊伍を組んで上官と行き交う場合は「歩調取れー」。号令のかけ方、歩調の取り方が気に入らないと、誰の前であろうと、やり直しさせて格好をつける上官がいたりするから、油断できない。三々五々連れ立って歩く兵隊たちの場合は、上官にいち早く気がついた者が「けれえー」と号令をかけ、直立不動の姿勢と挙手の礼で見送る。欠礼を咎められ、ビンタ張られても文句言えないから要注意だ。軍隊周辺は、規則がらみの重苦しい雰囲気がどっしりと垂れ込め、いつも緊張を強いられた。

 叔父との面会も緊張の連続だ。衛兵所の受付係に面会を申し込むと、「辻に面会!」と中へ怒鳴る。新兵の間は呼び捨てだ。叔父が呼び捨てにされるのが、自尊心を傷つけた。

 また、軍隊に入った当初は外出が許されず、甘いものに飢えるということで、面会に来る人たちは、物資欠乏のなかで砂糖を工面し、ぼた餅や饅頭をつくって持ってくる。しかし隊内では、衛生の面から地方(軍隊の外)で調理されたものは食べていけないのが原則。隠して食べているところを巡回の衛兵に見つかると、家族の前でも遠慮会釈なく鉄拳制裁が加えられる。

 ところが、コネを通じて衛兵所に付け届けを差し入れておくと、見て見ぬ振りをされる。そんなところから、軍人勅諭の「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし」をもじって、「一つ、軍人は要領を本分とすべし」といった冗談が一般に広がっていた。

 叔父は入隊後まもなく、甲種幹部候補生の試験に合格し、久留米の予備士官学校へ行くまでの半年の間に、最下級の2等兵から、1等兵、上等兵へと、昇級は一般兵より倍のスピード。衛兵所でも、呼び捨てから「辻君」「辻さん」へと変化。翌1943年10月、予備士官学校から見習士官になって帰ってくると、衛兵所では「辻殿」になった。腰につけるのは、俗にゴンボ剣と称する短剣から、長刀になった。将校姿の叔父はカッコよかった。「なるなら、陸軍将校だ!」。

 しかし、すでに私の心は、天皇の写真に小便をかけたり、勅語奉読を見下したりするなど、古事記のエロチシズムに蝕まれていた。2月に陸軍省が国民の戦意高揚を図って配布した、神武天皇が大和平定の際に軍士を慰撫・鼓舞するための歌として古事記や日本書紀に出ている久米歌の1節、「撃ちてし止まむ」の標語やポスターが巷に氾濫していたが、私の心は、出雲の大国主命が夜這いに来たときに歌った、女神の歌の肉感性に惹かれて止まなかった。

  栲綱(たくずぬ)の 白き腕(ただむき) 
  沫雪(あわゆき)の 軟(わか)やる身根(むね)を
  そだたき ただきまながり ま玉手 玉手差しまき
  股長(ももながに)に 寝(い)はなさむを

「あなた様の白い御手で、私の柔らかな肌を素肌のままに抱いて、互いに手足をさしちがえ纏(まとわ)りながら、足をさし伸べてゆるゆると寝ましょう」と訳されているが、もっと詳しく解りたかった。

 そして、「そだたき」「ただきまながり」「玉手差しまき」など、各注釈の紙背に徹するほど眼光を注ぎながら、子どもをつくる天皇と皇后の性風俗に想像をたくましくし、天皇制の罠から外れていったのだ。

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第7回「“ガキ大将対決”の時代」
 1943年、国民学校初等科6年になり、中学校、高等女学校、実業学校などに進学する者のための補習授業が放課後にはじまると、そのまま高等科へ進級する者との間で、なんとなく肌合いにズレを感ずるようになった。この学校には、毎年卒業時に進学組と残留組の喧嘩が繰り返されるという噂がある。明るさの底に不安がただよいはじめた。

 すでに戦況にも暗雲が垂れ込めはじめていた。前年夏頃からのガダルカナル攻防戦は、この年の2月、日本軍の“転進”で終結を見た。大本営は“転進”と体裁のいい表現をしたが、実際は敗退、退却だと大方の人は感じていた。

 また、頼みの綱としてきた盟邦ドイツも、2月には、スターリングラード攻防戦でソ連に敗北。5月には、北アフリカで米英連合軍に独伊軍降伏。日独伊三国同盟がガタついてきた。

 こうなると、“神の国”の人々にとっては神頼みのほかにない。祖母が支部長をしている大日本婦人会は、熱田神宮など尾張7社の月参りに戦勝祈願の熱を上げた。私たち少年団が毎夕欠かさない氏神日参では、天皇への忠誠をいっそう高めるため、前年暮れに大政翼賛会が国民の歌に指定した「海ゆかば」を、誰の指図か、社頭で歌うことになった。

 「海ゆかば、みずく屍。山ゆかば、草むす屍。大君の辺にこそ死なめ。かえりみはせじ」

 陰うつなメロディだ。日参はどことなく悲壮感に包まれた。その反動か、日参の前後には、男女に分かれてドッジボールに興じ、男は女の胸を、女は男の股間を狙って叫声を張り上げた。畑仕事を手伝う農家の女子は、男子に引けをとらない力を発揮したものだ。

 2学期、思いも寄らぬ事態が発生した。学年は、入学時から男ばかりの1組、男女混合の2組、女ばかりの3組に分かれて固定していたが、3組の担任が研修で出向することになったので、わが1組も、3組の女子の半数を受け入れることになったのだ。初めて女子を迎え、組全体が華やいだ。深まる筈であった進学組と残留組の反目も、影をひそめてしまった。

 女子を交えた補習授業は楽しかった。私は性に対する興味をつのらせた。しかし、古事記から得た知識ではどうにもならない。子女を持つ親戚の縁側から婦人雑誌の付録『娘・妻・母の生理衛生』を盗み出した。読んでみて、メンスの生理に新鮮な驚きを覚えた。果たして女子は、本当のことを知っているのか? 補習授業のとき、担任の留守を見計らって、卵巣から子宮、膣にいたる女性器の略図を黒板に描き、懸命にメンスの仕組みを解説した。ところが途中で、突然担任が戻ってきた。あわてて黒板を拭き消したが、時すでに遅し。「とろくさい話をしてらぇた」という女子の答えで、4月29日の天長節勅語奉読見下ろし事件に次ぐ大目玉を喰らってしまった。

 年あけて1944年。3組の担任が復帰し、男女共学の夢は消えた。わが組は男ばかりに戻り、むくつけき3学期を迎えた。再び進学組と残留組との反目が芽吹いてきた。進学組の大将は腕力からして私だが、残留組の大将は、当然みんなより5歳ほど年長の金山正雄だ。

 朝鮮籍の彼は、2年のとき転入してきた。当時級長として担任の手伝いをしていた私は、極秘とされている学籍簿から彼の本名を知り、その素晴らしさに目を瞠った。“金相烈”が、なぜ金山正雄という平凡な名前を名乗らなくてはいけないのか! 以来彼の境遇に悲哀を感じてきた。背格好が似ている彼とは腕力も伯仲し、口論もよくしたが、彼は質素な母子家庭で育つ私の本好きを理解し、新聞配達の給金で本を買うごとに貸してくれる、よきライバルでもあった。

 2月の後半、入学試験の願書を出す頃になると、残留組との反目がひしひしと感じられた。

 そして或る日。私と同方向へ帰る数人が、金山を中心にした20人近い残留組に囲まれた。場所は、織田信長を顕彰して清洲城跡に出来た清洲公園。いつも仲良く遊んでいる近所の子まで、相手側から眼を光らせていたのはショックだったが、臆せず私は金山と長くにらみ合った。しかし、どちらともなく、お互いに止めようとなった。卒業式も、穏やかに終わった。

 金山とは、敗戦間もなく印象的な別れをすることになった。

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第8回「“皇族に腹を立てた”時代」
 1944年の春3月。明倫中学校に入学試験の願書を出して間がない午後。学校から帰ってくると、母がぷりぷりしていた。合格すると、陸軍名古屋師団の師団長・賀陽宮の子息と同学年になるので、取り調べの厳しさで有名な特高(特別高等警察)が身元調べに来たというのだ。

 「変な目つきで、いやらしいことばかり聞き出そうとしていったわ」

 どうも、母子家庭などの欠損家庭だけをねらって調査に来たらしい。確かに、22歳で未亡人になって以来、若くて美しい母をまわりが放っておかなかった。「後妻にほしい」は、まあいいとして、誰かの妾(めかけ)になってはという話も、しばしば舞い込んだ。当時、妾という存在は、いかがわしいとされながらも一般的に通用していた。だから、母親がそんな“妾暮らし”をしているとすれば、その息子が皇族と同じ学校に通うのは畏れ多いというわけだろう。お茶、花、和裁の師匠として近郷近在から「おしょさま」と慕われ、私が誇りにしている母を、警察ぐるみで、それも特高に調べさせるような皇族の存在に、すごい屈辱と怒りを覚えた。

 入学した明倫中学校は、尾張徳川家の私立から愛知県立に移管されたもので、明和高校の前身だ。私は当初愛知一中を望んでいたが、戦時体制下の特例によるものか、その頃トップクラスの進学は、地域によって愛知一中か明倫に決められていた。

 新入生は5組に分けられ、賀陽宮は、名古屋市の良家の子弟で固めたと思われる1組に。私は、当然のように、郡部や名古屋市周辺部に住む泥臭い連中が集められた5組へ。学校は、特別待遇が目立つのを避けたのか、1組だけに2階の教室を当て、備品は真新しく整備し、壁はきれいに塗り替えてあった。賀陽宮は執事や護衛を引き連れて登校した。こんな差別を目にしながら、「明倫は名古屋の学習院だ」と言われて、得意がっている級友もいた。

 当時、米軍はトラック諸島・マーシャル諸島などに迫り、戦局は悪化の一途だった。学校は、戦える人間をめざして組対抗の棒倒し、騎馬戦などをよくやらせたが、1組と5組の対戦だけは、なぜか避けていた。説明を求めても、教師は口をにごすばかり。私たちは差別と受け止めた。

 運動部は、柔道部か剣道部へと思っていたら、銃剣道部を指導している卒業生に呼び出された。「敵を殺すには、投げたり、斬ったりするより、刺すのが一番。いまは銃剣術の時代だ」と説得され、半ば強制的に銃剣道部に入れられた。銃剣術とは、銃の先に短剣をつけた想定の木銃を使い、相手が突き出す木銃を払いつつ、相手の心臓部を刺す技だ。すでに4、5年生は軍需工場に動員されていて、最上級生は3年生。体格体力で引けをとらない私は対等に戦ったので、上級生のお説法=鉄拳制裁が横行していたが、校内では怖い者知らずだった。

 軍事教練は、大人への仲間入りを感じさせた。しかし教練の内容は、直立不動の姿勢、挙手の礼、捧げ銃、行進の歩き方など、戦地では科学戦が激しく展開されているのに、幼稚に思えることばかり。班に分かれて練習を繰り返すのだが、馬鹿らしくなり、班長になると手を抜いて、よく配属将校から往復ビンタをくらった。ところで日本の軍人にとっては、実地より精神の方が大切らしく、軍人勅諭を暗記すれば、成績を“優”にするとのこと。暗記した連中は配属将校室へ急いだ。「貴様のような体のええのが覚えないのは、不忠だ」と叱られたが、従う気になれず、1学期前半の成績は“良”。陸軍幼年学校からはあっさり門前払い。しかし軍エリートへの道を絶たれても、何ら痛みを感じなかった。前年の暮れ、中国へ送られた叔父が「軍人志望をやめよ」と言い残した言葉や、叔父を通して知った軍隊の嫌な面が気にかかっていたのかも知れない。

 1学期後半に入ると、私たち中学下級生にも直接戦争協力を求める情勢になった。夏休みを返上して、工場への勤労動員が始まった。賀陽宮の姿は消えていた。動員から逃げたな!?

 因みに、今回調べてみると、賀陽宮師団長はすでに4月6日交代、子息は学期の変わり目を待って明倫を去ったのだった。そして、賀陽宮離任後の名古屋師団は、早くも翌5月には危機迫るサイパン島に送られ、7月7日全員戦死。この人事、何と考えるべきか!

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第9回「“暴力でささえた軍国主義”の時代」
 1994年7月サイパンが陥落し、東条内閣は挫折して敗色歴然となった。8月から明倫中学の私たち1年生にも、学徒勤労動員がかかった。動員先は、工作機械メーカー・大隈鉄工所萩野工場。まず工員養成所で技能の初歩を習うことになった。学徒動員は「教育錬成内容の一環」とされた。そのため作業前に1時間ほどの授業が組み込まれたが、進学校としての厳しい授業からは全面的にまぬがれた。その上養成所には上級生がいないこともあって、私は迫りくる身の危険もかえりみず解放感に浸った。

 軍国主義がはびこる当時は、「国のためだ」とか、「お前を鍛えるためだ」とか、何かと小理屈をつけて力にものを言わせた時代。下級生にオセッポ(お説法=鉄拳制裁)ができなくては、上級生の資格がないといった風潮があった。体格や顔つきの目立つ者は、常に上級生から目をつけられた。私などは元気に走り回っているだけで、生意気だと因縁をつけられオセッポされた。ときには練習のつもりか、新米顔の2年生が私を呼び止め、おずおずと咎めかけるが、私が身を乗り出すと、相手が悪かったように「いや、なんでもない」と立ち去る場合が幾度もあった。また教師の中には、「上級生を兄さんだと思え」と上級生の暴力にへつらう人、質問に答えられないと、耳たぶをイヤッというほどひねり上げる英語教師、予習してこないと教科書で思い切り頬を殴る国語教師などがいて、校内組織は暴力によって支えられている面が多分にあった。

 というわけで、1年生だけが通う大隈の工員養成所は、私にとってまさに天国。しかしここでは、私たち5組によるオセッポが、他の組に対して横行した。ある時、竹箒の柄で殴ろうとなった。私も殴れとそそのかされたが、止めさせる気力とてなく、断るのが精一杯だった。仲間がどう反応するか。敵に回るか、意気地なしと軽蔑するか。力では最強の部類だった私でも、そのときの緊張感を今でも体が覚えている。他の組は、旋盤とか研磨盤など機械を扱う工場へ配属されるのに、皇族の子弟を受け入れるための組編成で田舎者ばかりが集められた5組だけが、土いじりに近い、煤まみれの鋳物工場へ回されることによる被差別感の暴発でもあったのだ。

 この辺の記憶を電話で友人に確かめたが、全く覚えがなかった。逆に彼は、機械の回転スピードを変えるために、モーターの回転を伝える皮ベルトを竹竿の先で掛け変える訓練をよく覚えていて、すっかり忘れていた私を驚かせた。また、工場慰問の演芸を同じように見ていて、彼が覚えているのは桃太郎を題材にした漫談だけだそうだし、私が覚えているのは、女性の太股がちらつくフラメンコだけ。当時の彼は小柄で初々しく、力とは無関係の部類にいたのだ。心身の育ち具合によって、覚えている記憶の内容が全く違うことに、50年以上たった今、あらためて驚かされた。この違いは空襲体験でもはっきりしたが、後の話だ。 

 1ヶ月後、私たちは鋳鉄工場で煤にまみれた。上下に分かれる鉄枠の中に木型を入れ、粘りをつけた砂で包んで突き固める。木型が鉄枠に触れないように砂を固めたら、木型を抜いて炉に入れる。1晩焼き固めると鋳型ができる。翌朝煤を払い、上下の枠を一体にして、溶けた鉄を流し込む。木型は簡単なものあれば複雑なものもある。顔や手は当然として、どんなに厚着していても、煤は肌まで浸透した。体は黒く汚れるが、作業は機械に追われることもなく、変化に富んでいて結構楽しかった。冗談を飛ばし合って、5組の暴力体質もやわらいでいった。

 しかし近くの工場から、4、5年生が時々見回りにきた。どんな情報が流れたのか、私は10人ほどの集団にオセッポされたことがあった。にらまれる存在として油断はできなかった。

 休日は隔週。通勤距離の長い私は、朝6時に家を出て、夜7時に帰る毎日。冬になると、星を戴いての通勤が続く。天皇崇拝から脱落していた私は、忠義の戦争にうんざりした。

 会社をさぼった私は、祖母にバリカンで頭を刈ってもらっていた。ちょうど半分終わったとき、家と大地が大きく揺れた。1944年12月7日の東南海地震だった。刈り落とされる髪を受けていた風呂敷で頭を隠し、よろける祖母を抱えて裏庭へと急いだ。

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